労働すると、お金がもらえる約束になっていて、その約束が成立しているからお金が振り込まれるけれども、
働いてもお金が貰えないこともあるし、
働かなくてもお金が貰える人もいる。
人はそれを「そういうものだ」とか「そういう人もいる」というファジーな枠に当てはめようとするけれど、例えばそういうことひとつにしたって私はいつも、これは、もし1つのルールで語るとすれば、どういう事になるんだろうと考える方で。
なぜ働いたらお金が貰えるのか
なぜ働いてももらえない人がいるのか、その差は何なのか。
働かなくてももらえる人の本質は何なのか。
働かないと当たり前にお金が手に入らない人がいて
そもそもお金って何なのか、働くとは何なのか。
それを考えだすと今度は、その背景には何があるのだろう、という思考に自然となる。
そこで出てきたものに法則性が見いだされなければ、今度はまたその奥の背景を考える。
矛盾のないところまで遡って、法則性を見つけて、現在起こっていることに適応させる事を人は誰でもやっているのだと思っていたのですが、こういう事を好き好んでいつもいつも考えている人は、あまり多くないのかもしれない事も知るようになってきました。
私は、世の中に起こっていることに例外はないと思う。
人間がかんたんに理解できないほど複雑に見えながらも、きっと大きな1つのルールでこの世の中はできていて、例外なくそのルールに乗っ取って、我々は生かされているのだろうと思う。
運の良い人や、お金を持っている人、美人さん、人より稼ぐのが上手な人や、芸術的センスのある人、あるいは何やら「選ばれた人」だけが幸せになるのなら、そういうものを持たない人がいて、持たない人は不幸になるのなら、人生はもう決まってしまっているのだから、この世に生まれる必要があるのだろうか?生まれつき幸せか不幸かが決まっている意味ってなんだ、いやいやそもそも
私はあまり世界がそういう風にできているとは考えてなかった。
人が皆、フラットにチャンスを与えられている存在だとしたら、世の中はどういう仕組みで動いているんだろう。
という設定で、物事を見つめ、考えているので。
この前提で生きていく事にしたら、当たり前に、法則性をどこまでも考えるようになったし、それを続けていく事によって、かなり確信を持てることも多くなった。
わかった事は、幸福は確かに自分の手で作ることができる。
ただそれだけでした。
でも、人がそう簡単に変われない、という事も言える。
むしろかんたんに変わってはいけないんです。
なぜなら、変わったと思えるまでの「プロセス」こそが、人を成長させるし、願いをかなえるからです。
現実を具体的に良くするからです。
でもその結果はおまけ。おまけが凄くゴージャスになるだけ。
お金をたくさんほしいと思っても、実はお金を得た結果というのは自分を幸福にしてくれはしない。
ただの結果だから、それでいったん終わる。
たくさんお金がほしいと思った、それが叶うまでの、少しずつ意識を高めていく事や、行動していく事、その想いを持つ自分を大切にして、助けてくれる人の存在があり、時にふと目にした本の1ページが影響する。そんなことも含めたあらゆる自分を包括しながら、それが飽和した状態の、まさにお金が手に入るその直前までがプロセスで、一番エネルギーが高く、可能性と期待値を持ち、
最も幸福な状態に入ります。
↑人が最も欲しているのは、ここです。
お金がまだ手に入っていない段階の、ここです、この瞬間。
ここは、必ず人が介在している。
この、人が介在している瞬間に、いわゆる愛とか感謝がぶわっと生まれるんです。
で、ポコッと、お金という結果が生まれる。終わり。
お金を手にしたその結果は、お金ばっか見ていると気がつかないけれど、人が介在していないんです。
だから、そこに感謝も愛も生まれないんですよ。
エネルギー値も、物理的に低くなっています。
ただ物質的なお金がそこにあるだけ。でも、人を見ていない人は、お金だけ見てて上っ面の幸福感に浸るから、お金という紙切れに感謝しちゃうんですよね。違うからそれ。
で、お金の本質がわからないから、1回はできたとしても、次からの再現はできなくなるんです。
この辺は、とても細かい、心の話が必要になるところなのですが。
この細かい微細なところが理解できると、宝くじなどが当たると思う。
買ったことないけれど。
正味、意識を合わせるだけだからシンプル。
でも、本当に職人技くらい、細かい細かい精度の高い話なんですよ。
スポーツ選手が金メダル取るのもきっと、意識を合わせるここの精度が究極的なんだと思う。
私も昔は、願いをかなえる事なんかをとてもざっくりと考えていて、全然、何も叶わなかった。
少しずつ、これでもか、これでもかと、細かく細かく合わせてきたら、あきらめなかった分その精度が上がって、今に至る。
できないこともずいぶん増えて、できることは本当にただの1個になってしまって、それもどうなの?という状況ですが、だって、私の望みが、たった1つのルールを知りたいだけだから、それ以外は捨てても、もうしょうがないとも思っています。
それでも今日は、おいしい夕ご飯を息子と一緒に食べることができた。
捨てることと、失う事は、同じじゃないんです。
捨てるからって、なくなるわけじゃない。
春休み、遠出から帰ってきて、あれこれ話す彼を見ているだけで、幸せな涙が出てくるし、
幸福度は最高なんですが、それは、よくある「いつも幸せはあなたの隣にある」というやつなんだけど、だからといってそれは、そんな聞き触りの良い言葉をちょっと読んでその気になっただけで得られるもんじゃなくて、
やっぱり、理解できるまで、取り組むだけの事なんだ。
幸せの本質に。
世の中にいろんな心理カウンセラーとかいるけれど、一旦は自分の奥底を見て絶望して、どん底になって、そこから同じような人を救いたいって先生になった人も多いと思うのですが、
その人たちの多くは、決して「嘘」ではないんだけど「途中でやめてしまう」人が多い。
先生になった途端、向き合う事をしなくなるんだと思うんです、単に。
大事なのは、見えない世界を現実に活かすには、今のところ統計学的なツールが有効になると思うんですが
それは、いつもいつも実験して、データを取って、繰り返し検証して【そのデータを更新していかなくちゃいけない】性質のものであるはず。
そうすると当然、先生になってお金や地位を得たって、待っているのはストイックな毎日になるはずなんですが
ぜいたくなご飯とか、旅とか、そういう遊びをする時間の方が圧倒的に増えていっている人が実際には多い。
楽しくてそっちに行ってしまうのも、人間の弱さとして、あり得るのかなと思う。
それに、つきあう人間が増えたりしてね。
無駄にコラボしたりなんかして。
余計な情報が増えるのもそうですが、何より本来かけるべき時間にかけるところが少なくなる分、更新の精度が上がらないわけで、コンテンツが廃れていくんですよね。
だから、そういう人は栄華と衰退になる。
本物は見えない。栄華も衰退もない。
ただストイックな毎日があるだけです。
でないと継続できない、1日は等しく24時間しかないからです。