1日のうち、他人をのぞき見している時間はどれくらいあるだろう。
SNSを見る時間。
ママ友の愚痴を言う時間。
子どもが言うことを聞かないとか、旦那が●●してくれないと思う時間。
旦那が帰ってこない、何をしているのだろうと疑念を持つ時間。
ライバルや、嫌いな人の動向を探る時間。
【ちょっと良い話】コンビニの店員が思わずほっこりしたわけは?みたいな記事。
話題のイヌやネコの、くすっと笑える動画。
ちょっと良い気分になったり、嫌いな人のことをちょっとだけ考えるみたいな時間、それもたとえ最後に「私には関係ないけどね」とか「気にしないでおこう」などと思ったとしても、すでにそれまでの時間、他人のことを考えることに使っていた時間は確実にカウントされているし、未来に作用している。
ちょっとほろっとするような話だって、自分の話じゃない。
アマゾンや楽天のレビューの多さで買い物の選択をしていると、自分の感覚で人生の選択ができなくなる。
買い物と人生は別? ほんとうにそうだろうか。
人間の感情は繋がっていて、器用に切り離すことはできない。
だから、人の悪口を言っていると、悪口を言われることから逃れられない。
「人の嫌がることをしてはいけない」というのは、ちょうど半分、自分のためでもある。
「自分に返ってくる」というのは、そういうこと。
心理学でいう「投影」はなぜ起こるのかというと、自分に起こっていることと、目の前で起こっている事に対して、自分の感情を分けられないからなのです。
起こっていることそのものは別なのに、本質的には同じだよというのは、そこの感情が単に同じだからです。同じ感情でどちらもとらえているから、なのです。
いつもスマホを手放さずSNSを見ている、人の記事にすかさず好意的なコメントをしている(ちょっとだけ知っている)人がいて、特に悪いことをしているわけではないけれど、媚びているようにも映るその人のその心理を説明するとしたら、そうか、他人をのぞき見しているのだ、ということに思い当たる。
その時間、明らかにその人は自分の時間を生きていない。
余計なお世話だけど、無駄に辛そうだ。
そんな時間が全くないのが良いのではなく、インプットは大事であり、それがもちろんSNSでも、残酷な映画でも、意味のなさそうな遊びでも、悲しみでも、人はそこから何かを生むことができる。
ただ、どうせ見るなら、どうせ感じるなら、そこから何かを得ようと意図することで、得るものはあるし、無駄な時間ではなくなる。
何をしていても、それが受け身では、人生は受け身になるし、その逆もしかり。
受け身の自分はそのまま家族に投影していく。
もう受け身では生きられない時代になっているのに。